
前回の記事で、英国オックスフォード大学の研究者が発表した「トランス女性の犯罪パターンは、女性ではなく男性の統計と一致する」という否定のしどころがないデータを紹介した。データに基づいた議論の必要性を感じてくださる方が増えている手応えを感じている。
その一方で、こうした客観的なデータを見たとき、私たちの脳内には、無意識に次のような思いが浮かび上がることがある。
「でも、私の周りにいるトランス女性(MtF)はすごく常識的でいい人だよ」
「見た目も完全に女性化していて、周囲に配慮している人まで排除するのはかわいそうではないか」
身近にいる特定の「いい人」を思い浮かべ、データという全体論から知人を例外として救い出してあげたくなる――。
実はこれ、人間の脳が持つきわめて普遍的な「認知の罠」なのだ。
今回は、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの不朽の名著『Thinking, Fast and Slow』の知見を借りながら、なぜ「いい人だから」という個人的な感情が、社会の防犯システムを壊してしまうのかを考えてみる。
1. 人間の脳は「統計」よりも「身近な物語」を信じる
カーネマンは、人間の思考には2つのシステムがあると説明している。
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システム1(速い思考): 直観、感情、個人的な経験。脳に負担をかけず、一瞬で「好き・嫌い」「安全・危険」を判断。
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システム2(遅い思考): 論理、統計、俯瞰的な分析。エネルギーを消費するため、脳がサボりたがる思考。
「英国の25年間の殺人データ(統計)」を理解するには、システム2(論理)を使う必要がある。しかし、私たちの脳はエネルギーを節約したいため、すぐに使い慣れたシステム1(直観・経験)に逃げ込もうとする。
つまり、母集団から弾き出された「0.8」という冷徹な統計データよりも、「自分の知っているあの親切なAさん(n=1の物語)」の方を、脳は圧倒的に「リアルな真実」として信じ込んでしまうのだ。
これは移民問題や治安問題を議論するときにも全く同じことが起きる。
「私の知っている外国人はみんないい人だから、移民の犯罪率のデータなんて偏見だ」という、典型的な「過剰一般化(利用可能性ヒューリスティック)」の罠だ。
2. 「見た目」や「人柄」は、防犯の基準にならない
もう一つの罠は、「見た目が綺麗にパス(女性化)しているか」「手術をしているか」という美観やマナーの議論にすり替えてしまうこと。
個人の人間関係や恋愛市場において「見た目」や「人柄」は重要でしょう。しかし、公共の防犯システムにおいて、それは1ミリの基準にもなり得ない。
どれだけ外見が女性化していても、どれだけ普段の物腰が柔らかくても、生物学的性別が男性である以上、前回の記事で示した「出生時男性の暴力パターン(統計データ)」の枠外に出るわけではない。
「パスしている綺麗なトランス女性なら、女性トイレに入っても不快感がないからいいじゃないか」という思考は、安全管理の議論を「不快か、調和しているか」という感情論にすり替えてしまっている。
凶悪な犯罪者が、常に「怪しい見た目」や「粗暴な人柄」をしているわけではないことは、歴史が証明している。
3. 防犯システムは「善人」ではなく「最悪の狼」を想定して作るもの
社会のルールや法律、そして「女性専用スペース」という防犯システムは、「世の中にいる善良な人たち」を基準に作られているのではない。
もし世界が善人だけなら、そもそも鍵も、警察も、女性専用車両も必要ないではないか。
防犯システムとは、「いつ現れるか分からない、牙を剥く最悪の加害者(狼)」を確実に排除するために存在するのだ。
「性自認さえ名乗れば(あるいは見た目が女性らしくあれば)、身体が男性のままでも女性スペースに入れる」という例外をたった一つでも認めれば、社会の防犯フィルターには巨大な穴が空く。
その穴を悪用するのは、誰かの知り合い「常識的でいい人のトランス女性」ではない。
「弱者の皮(女性自認)をかぶって、合法的に女性スペースという狩場に侵入しようとする、本物の狼(悪意ある男性)」だ。
身近な「いい人」への同情心から防犯フィルターに穴を空けることは、結果として、その穴から本物の狼を招き入れ、見ず知らずの女性や子供たちを危険に晒すことに直結する。
「個別具体例」と「社会制度」を混同してはならない
個人的な人間関係において、特定の誰かを「信頼できるいい人だ」と判断するのは自由ですし、個人の自由な選択だ。
しかし、社会全体の安全を担保する制度設計においては、その個人的な気持ちは完全に排除されなければならない。
「被害者像」や「身近な善人」という感情の物語(システム1)を優先し、客観的なデータ(システム2)を無視する社会は、確実に防犯機能を失い、歪んでいく。
私たちが守るべきは、個人の感情を満たすための「配慮」ではなく、圧倒的多数の女性と子供たちの「命と安全」という、冷徹な現実なのだ。